待つことの意味

若かりし頃、生徒のお尻を叩いてあげるべきだと思っていました。

やりたいことがあって、やれるだけの環境と協力があって、それを可能にする潜在能力があって。

お尻を叩かない理由はないと考えていました。

 

勿論、本人の意思が一番重要ですから、どんなに可能性をみつけても、本人にその気がない場合は、やってみればいいのに、とか、やらないの?とか、水を向ける事はあっても、それ以上の事は何もしていません。

 

今は、能力がある事、やる気がある事、環境がある事と、やれること、やり続ける事はまた別の能力だということをしみじみと感じます。誰にお尻を叩かれる訳でもなく、自分からキチンとやるべき事柄をやり続けられる能力は鍛える必要があり、成長する為に必須の能力です。

どのように声をかけ、刺激することで、継続的に自分で考え、やり続ける力を鍛える手助けできるのか、どこまで厳しく接するのか、どこまで待つのか。教える側が試される課題でもあります。

 

トップレベルの天才達は、有り余る能力と共に、その能力を鍛え続ける才能も磨き続けています。それが出来る人達のみが長い間トップレベルに君臨することが出来るのでしょう。

ですが、大多数の人はその両方とも、そこまで強烈なものは持っていません。であるのならば、持っているものを根気よく磨き、育てていくことが大切だと思います。教える側の責任はそれを根気よく諦めずに手助けし続ける事なのだと、今は考えています。

お尻を叩いて追い立てるのではなく、子供達に刺激を与えながら、子供達が動き出すのを待つ、教える側にも一定の負荷を要求しますが、それでも有り余る意味と価値はあると思います。

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